『幸せ』と『仕合わせ』の違いを知ってるかい?

 

毎年の初詣。

お賽銭をチャリン♪と投げて、パンッパンッ!

 

 

手を合わせて、あなたは何をお願いしてきましたか〜?

願いはそれぞれ違えど、結局のところ『幸せになりたい』っていう思いに関しては、地球人類共通事項なんじゃないかな。

 

 

こうやって改めてド直球で質問されてみると、考え込んじゃう人も多いかもしれないね^^;

でも、一度くらいは考えてみたことはあるでしょ?

 

『自分にとって、幸せって何なんだろう?』ってさ♪

 

でも、そもそもカタチなどない『幸せ』というものは日々の忙しい生活の中で、ボンヤリとしてしまって雲のように流れて、見えなくなっていくことも多いよね。

 

常に、頭の片隅で漠然と考えてた『しあわせ』という言葉。

漢字の成り立ちを調べてみたら、ビックリ仰天の事実が判明したので、お伝えするね!

 

幸せを丸くすると書いて『執(しつ)』という文字になる。

幸せという言葉ついて話す前に

『執』

という文字を取り上げてみたいと思うんだ。

 

『とらわれる』とか『固く掴んで離さない』という意味を持つこの文字は固執執着偏執など、一方向の事象にとらわれる様子をあらわす言葉として用いられることが多いよね。

『幸せを丸くする』という平穏安らかな雰囲気にはなんだか結び付きづらい・・・

一見マイナスな言葉として使われることが多いのは何故か知ってる?

 

うむ。では、お答えしよう。

この『執』という漢字の成り立ちを聞いてビックリしないでね。

甲骨文字ではこんな風に書かれるんだけど。

 

この右半分にある『丸』に相当するところ

人がひざまずいて丸くなり、両手を前に出している様子をあらわしているんだ。

 

 

そして、左半分『幸』にあたるこの部分は・・・

なんと、二本の両手を縛り上げる『手枷(てかせ)』をあらわしていて

これは、現代でいうところの『手錠』に当たる。

 

なんだか、衝撃だよね・・・。

 

僕らが『幸せになりたい、幸せになりたい。』と願っていたことは、この幸という漢字の成り立ちからみると『手錠はめられたい、手錠はめられたい!』になってしまうなんて・・・

 

もう五反田のSMクラブの女王様も二度見しちゃうほどビックリだよ。

漢字の成り立ちには諸説あったりして曖昧なものも多いけど、『執』に関しては、大方一致しているようだ。

 

つまり、僕らが自分よがりのエゴに囚われた状態で『わたしの幸せ』ばかりをいくら追い求めても、それはただ五感の満足度を満たし続けるループ作業に過ぎなくて。どこまでいってもオワリはなくて・・・

 

それどころか、かえって自我フレームという『手錠』を強固にしてしまい、結果として、亜空間知能という『牢獄』に囚われ続けることになってしまうというのがカラクリなんだ。まるで、イタズラばかりする孫悟空が、頭の輪っかにしめつけられるみたいに。

お釈迦様は、そんな偽りの幸せを追い求めて『四苦八苦(しくはっく)』を続ける滑稽なループから、さっさと解脱しちゃえよという意味で縁起の大切さを説いたのかもしれないね。

実は、この「縁(えん)」

ここに、しあわせの本質が隠れていたんだ。

 

『仕合わせ』の意味を知ると、日本語ってとても深イィと思うんだな

 

『しあわせ』を漢字で書くと『幸せ』と『仕合わせ』の二通りあるんだよね。知ってた?

辞書でひくと、この二つの言葉は違った意味合いで説明されてるようだ。

 

『幸』の語源はさっきも説明したとおりなんだけど。

『仕合わせ』の語源は、元々『し合わす』からきているんだよ。

『し』は『する』という動詞の連用形であり、双方の動きが合うこと。

つまり、異なる二つが『重なる』ことを意味してる。

ちなみに辞書でひくと『めぐり合わせ』『運命』という言葉で説明されているんだよね。

 

そして、どうやら必ずしも良い出来事だけを指すわけではないみたいなんだ。

その出来事だけ(切り取られた点としての観測)=部分で見れば一見悪い結果に思える事さえも『人間万事塞翁が馬』というコトワザがあるようにゼロシリアスで捉えて、すべてを含み、重なり続けることで形成されていく大きなの流れに委ねること。

偶然巡り合った“この良縁”も、“あの悪縁”さえも、そのすべての「因→縁→果」があなたの観測する時空を形成しているということに気付けていることが『しあわせ』だったんだ。

すべては連続的な重なりの中の一片に過ぎず。

一つの大きな流れの中の小波さざなみとして多角的に捉えることができれば、もう、目の前の小さな出来事だけを切り取って、一喜一憂することもないからね。

 

良きも悪しきもすべてを含めた『巡り会い』の中から、何と重なり、また遠のき、その循環していく回転情報の中で止めどなく流れ続けること。

 

そのためには、《自分=五感の満足度》を主体とした点(静止)で捉えた幸せなどではなく、《他者との関係性という縁起》を主体とした円(回転)で捉えた仕合わせこそが僕らが生まれてきた意味にも通じていくのかもしれないね。

なのに、僕らは今日も《じぶん》という点(完全情報)で頭がいっぱいだろう。

そんな状況で、お金の増減や、オナニー夢リストばかり追い求めている状態で、大切な《袖振り合う他生の縁》に気付けるだろうか?

それは本当の意味で『しあわせ』に通じているのだろうか?

 

映画「クラウドアトラス」ではトムハンクス演じる主人公も、時代によっては、時空を超えた出逢い(縁起=重なり)に気付けなかったんだ。

(マニアックな映画なので、知らない人も多いだろうけど、超イイ映画だよ♪)

 

こんな『スレ違い』が、きっと地球では起こりまくってると思うんだよ。

つまり、自我フレームの感情=エゴに囚われて盲目になっていると、自分にとって本当に大切であり重なるべきものも見落としてしまうことがあるということ。

あなたは今、周囲との関係性にどれだけ気を配れていますか?

地獄の真意は『逢いたい人に逢えない時空』

仏教においては、八つの地獄の中で最も苦しいとされる『無間地獄』と呼ばれるものがある。

読んで字のごとく『間が無い』=つまり関係性が重ならない=縁起が生じぬこと。

無縁地獄ともいわれてる。

 

地獄とは、死後にどこか別世界に飛ばされるわけじゃなくて・・・

まさに今、生きているこの瞬間に、逢うべき人と出逢えないことこそが最大の地獄であり、苦しみだということを伝えているんだよ。

だとするなら、僕らは物質的な満足度を満たすことよりも、逢いたい人に逢えることこそが最大の喜びであり、重なりを重視すべき生き方であると、もっともっと腹に落とす必要があるのかもしれない。

 

そんな想いが、中島みゆきさんの名曲『糸』にも込められているよ。

改めて、歌詞を噛みしめてみてよ。名曲だぜ!

なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない

いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない

どこにいたの? 生きてきたの?

遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸はあなた

横の糸は私

織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない

糸は重なることで布となり、また他の誰かにそのぬくもりの記憶を伝えてくれる。

 

たとえ、生きてる意味を見失いそうになっても、こんな事してても無意味ないんじゃないかと途方に暮れかけても、もう一度周りを見渡して、そこに浮かび上がる繋がり、その重なりにもっと意識を向けてみることで、自分の内側にもまた、はっきりと見えてくるものがある。

 

僕らが自己満的な幸福ばかりを願ってお参りしてる、その神社の境内には、なぜか鏡が置かれてある意味・・・

《自分》に思考の矢印を向けていては見えないものが、《他者》という鏡を通して見えてくることを知ってほしいということなのだろうか。

 

『かがみ』から『が(我)』を抜くと『かみ(神)』になるよね。

だから、神頼みするのではなく、まず自我フレームの余計な囚われを抜きさることから始まるのかもしれない。

 

なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡の ささくれ

夢追いかけ走って ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの?

心許(もと)なくて ふるえてた嵐の中

縦の糸はあなた

横の糸は私

織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない

 

縦の糸はあなた

横の糸は私

 

 

逢うべき糸に 出逢えることを

人は『仕合わせ』と呼びます

中島みゆき『糸』

私は、本当に逢いたい人と出逢い、関係性を重ねられているだろうか?

自分のことばかり考えてイライラしてるうちに、すれ違っていたりしてねw(ドキッ)

 

それって、お金や物質的な悩みなんか比にならないくらい、辛くて悲しいことじゃない。

 

だから、今年の初詣では『幸せ』ではなく『仕合わせ』を願ってみるもの悪くないかもよ。

その右手と左手を合わせ、しわ(時空ライン)を重ねた、ぬくもり溢れる『しあわせ』に包まれますように。ってね♪

 

 

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