【学校いらない】寺子屋に学ぶ”本当の自分”を知るぬくもり教育

 

 

 

 

「あれ・・?もしかして学校って・・・いらないんじゃね?」

 

 

 

コロナショックで自粛ムードが続く中、

もしかしたら、そんなことを君は感じているかもしれない。

 

 

小学生たちは、ちょっと前にはおじいさんおばあさんしかいなかった街の公園に繰り出し、

 

始業の延期を言い渡された中高生は、家でやることも特になく、ひたすらスマホ画面に向かう・・・

 

「やった!ゲームいくらでもできるじゃん!」

「見たかった動画ずーっと見れる!」

 

しかし、2週間もすれば・・・

 

「(これずっとやんのか・・・)」

「(さすがに飽きてきた・・・)」

「(なんかおもしろいことねーかな・・・)」

 

3週間後・・・

 

「(あれ?そもそもなんでこんなことしてんだっけ?)

(そうそうコロナで・・・ん?そのまえは?)

(あれ?なんで学校いってたんだっけ?)

 

(大学いくため?いい会社に就職するため?)

(それでしあわせな結婚して、マイホーム買って、幸せな家庭生活送るため?)

(あれ?でも今の大人たち・・・ぜんぜん幸せそうに見えないぞ?)

(“しあわせ”ってなんだっけ?)

 

(スマホゲームずっとやってて“しあわせ”になれるんだっけ?)

(そもそも自分だけがしあわせになっても、コロナみたいな災害でみんなしあわせじゃなくなったら?)

(あれ?”自分の“しあわせってなんだ?)

 

(ん?“じぶん”ってなんだ?)

(“わたし”って誰だ・・・?)

 

あれ?

あれれ?

 

学校でそんなこと教わらなかったな・・・

 

てか、そもそも学校って何を学ぶ場所だっけ?

 

 

 

学校教育の終わり・・・

 

学校って、人生で大事なこと、何一つ教えてくれてないんじゃね!?

 

 

あれ・・・??

 

もしかして・・・学校って意味ないんじゃね・・・!?

 

 

 

 

学校教育への違和感が全国で、吹き出しはじめている中、

 

人生で大事なこと。

 

何を学ぶか?ではなく、そもそもなぜ学ぶのか?

 

それすら学校教育では、何一つ教えてくれないとしたら、学校に行く意味はあるのか?

(学校に通った意味はあったのか?)

 

君がそんな疑問が思い浮かべるのは当然だよね。

 

それどころか、

スクールカースト、上下対立?

あいつらダサい、俺らイケてる?

パリピ、リア充、あいつら陰キャ?

勉強できるマジ尊み?

コンプレックス or プライド?

まじめ、ふまじめ、それいじめ?

体育会系、文化系?

で、結局いい大学いったら勝ち(価値)?

 

あらゆることにおいて古臭い昭和・平成のニオイが染み付いた

あのくさ~い同調圧力(=亜空間知能)、その温床となっている学校。

 

 

もう飽きた・・・って、すなおに口に出してもいい時期だろう。

 

子どもの君だけじゃない。

 

大人でさえ、このままコロナショックで変わっていくこれからの世の中を生きるには、昭和・平成の価値観では、あまりに頼りない。

 

そんな危機感がむくむくと、湧き上がっているはず。

 

 

でも、ないものねだりしてもしょうがない。そんなことはわかってる。

 

 

そんな僕らに、“あるもの”

すでに“あった”けど、忘れ去られているものってなんだろう?

 

 

こんな時代にはそういうものが価値を持つ。

 

 

その一つが・・・

 

江戸・明治の教育機関 『寺子屋』。

 

 

令和こそ”寺子屋教育”に学ぶべき理由!

 

今の学校教育・・・ちょっとヘンだよね?

教育ってもっとなんかこう・・・違うじゃん!!

もっと本質的なこと、人生の役に立つことを学びたい!

 

 

ってもし君が少しでも感じているとしたら、

その答えは、「学校教育制度」ができる昭和より前の時代にある。

 

 

そう、

コロナと同じように、時代が変わらざるを得なかったあの激動の幕末、明治維新~世界大戦の時代に、

時代の変化に適応するための本質的な“学び”を教えていた“学び舎”

 

 

それが“寺子屋”だ。

 

 

今回は、

戦後、普及した”6・3・3学校教育”によって封印されてしまった、

”本当の君”を解き放つカギとなる“寺子屋”教育について、

現代と照らし合わせながら、見ていこうと思う。

 

以下、全体像をつかんでおいてほしい。

 

【この記事で学べること】

  • 学校の同調圧力に封印された”本当の自分”を解放する方法
  • 昭和・平成の情緒なき学校教育のオワリとこれからの時代を生き抜くための教育法
  • ゆとり”温室’教育の本当の弊害とコロナショックの関係
  • 江戸・明治の寺子屋で行われていた”使命解放教育”の正体
  • すべての平成現代っ子が知るべきダサい大人にならないための基礎教養
  • すべての親が知るべき子どもに本当に大事なことを身に付けさせる子育ての方法
  • 僕らが学校教育で失ったもの、封印されたものの正体
  • コロナ自粛中、自宅でできる”本当の自分”の見つけ方(もう学校は必要ない!?)
  • 先が見えない日本のこれから5年・10年を迷わずに生きるための”軸”を見つける方法

【この記事を読むと得する人】

  • ”本当の自分”を知りたい人
  • 学校行っても、もう意味ないんじゃないかって感じちゃってる人
  • 本当は「このままでいいんだろうか?」と人生に疑問を持っている人
  • なんとなくこのままいっても人生つまらないって感じてる人
  • 日本の古き良き”和”の文化が好きな人
  • カタブツ教師や、うすっぺらいお友達先生はもう飽きたって人
  • AI(人工知能)に仕事を奪われるんじゃないかって不安な人
  • カラダ(人体)に興味がある人
  • 漠然とした違和感がある人、それを解消したい人
  • ”答え”を知りたい人

 

【この記事を読まないほうがいい人】

  • ”本当の自分”を知らずに、このまま一生を終えてもいい人
  • 自分の子どもに「ダサッ」って白い目で見られてもなんとも思わない人
  • ネットカフェで10年平気で生活できるって人
  • 一生誰とも会わずに自宅でVR生活でも構わないって人
  • 学校の先生がペッパーくんになっても何も違和感を感じない人
  • 老後寝たきりになった時ペッパーくんに介護されて安心する人
  • 自分の子どもがどうなろうが自分には関係ないって人
  • ”攻殻機動隊”の世界が現実になったらいいなって思ってる人
  • 今が心からしあわせで、10年後まで何も不安を感じないって人
いずれにせよ、これからの時代を生きるための指針を書いたから、

上記に当てはまる人は、最後まで読んでほしい。

 

まだ若くて可能性が満ちあふれた君にはもちろん、

子どもたちを育てるお母さん・お父さんにもね!

 

それでは、いってみよう!

 

レッツ、リモートスタディ!

 

寺子屋とは・・・?

 

 

江戸時代の庶民の教育機関・寺子屋。

 

「教育機関」って聞くと、なんだか特別な教育を施す秘密結社みたいでかっこいいよね。

 

 

でも、なんのことはない、僕らのような一般庶民のための”学び舎”

 

それが、寺子屋だ。

 

寺子屋は、幕府や藩の援助や介入のない”民営”だったらしい。

 

古いものは室町時代後期にまで遡り、お寺における”師弟教育”から始まったことから「寺子屋」の名称が残ったと言われている。

 

江戸時代には、その数なんと全国に1万5000~2万軒!

 

これを現代の人口比率で換算するなら、コンビニの数と同じくらいだ。

 

驚きだよね。

 

 

それだけ、教育が普及していた江戸時代、

就学率(寺子屋に通っていた割合)は70~86%(1850年頃:農村を含めた江戸府内)と言われている。

 

当時の世界中の国と比べても、

イギリスの大工業都市で20~25%(1837年)、

フランスでは1.4%(1793年初等教育は義務教育で無料)、

モスクワで20%(1920年)というデータがある。

江戸時代、日本人がどんなに教育熱心だったか分かるね。

 

またこの結果、幕末の成人男性の識字率は70%を超えていた。

ちなみに同じ時期、ロンドンの識字率は20%、パリでは10%未満となっている。

 

寺子屋は、世界でも類をみないほどの成果を挙げていたんだね。

 

また、江戸時代は、商売が盛んで、街には活気やぬくもりがあふれていた。

当時の西洋人が、日本を訪れた際、その町民のキラキラした様子にびっくりしたくらいだからね。

 

「人間」をつくるのは教育、というけれど、

そんな江戸の義理人情あふれる街の活気を支えたのも、この寺子屋教育の下地があったからなのかもしれない。

 

 

寺子屋では何を教えていたのか?

 

さあそんな庶民の”教育機関”寺子屋ではいったい何が教えられていたんだろう?

 

基本の「読み・書き・そろばん」というのは有名だよね。

今でいう国語と算数かな。

 

それに加えて、地理、裁縫、農業など生活に必要な実用的知識を教えてたそうだ。

 

でも、寺子屋での学びは、生活の役に立つ機能的な知識・技能だけじゃない

ってところが、僕らが知るべき大事なポイントだ。

 

まず、今の小学校と違うのは、

全員が決まりきったカリキュラムをすすめるのではなく、

生徒の年齢や興味、その子が将来就くだろう職業によって、

カリキュラムを自由に変えていく、っていう

マンツーマンの教育システムだったってところだ。

 

生徒によって背景や性格、才能や、学ぶ速さもそれぞれちがうんだから、

当たり前といえば、当たり前だけど、

江戸時代では、子ども一人ひとりをちゃんと見る事が、大事にされていたんだね。

 

 

うんうん、

そりゃそうだ!

 

ぶどうの種なのに、「りんごになーれ!」

って育てても、

「いやいや!!」って突っ込みたくなるよね。

 

野球選手になりたいのに、「よしまずはリフティングからだ」

て言われたら、「おいおい!」って思うよね。

 

でも、現代の画一的な一斉教育では、そんなものはフルシカト。

色とりどりの花を咲かせる、それぞれの異なる種に、

「よし、じゃあこのくらいの頻度と量で、肥料はこれだけあげれば、だいたい育つから、実験してみよう。

ああ、環境が変わったらいけないから、ぜんぶ温室に入れておいてね」

 

っておいおい!

 

そんなゆとり”温室”教育で、

自然に適応できる、力強い植物が育つかいアホ!

 

これからの社会を担う大切な次世代に、

そんな無機質な実験室の教育を施しておいて、

 

「いやあ~実験失敗ですね・・・

やっぱり太陽(コロナ)のもとでの実地教育が一番でした・・・」

 

なーんてほざかれた日には、たまんないよね。

ガンジーが飛び蹴りしたくなるレベルだよ、まったく・・・

 

おっと話がそれてしまった!

 

 

江戸の教育の話だったね。

 

マンツーマンであることで、

やっぱりいちばん外せないポイントは、

どんな職業につく上でも、どんな人間関係においても、

いちばん大事な姿勢・態度である、

 

”礼節”

 

その”立ち振舞い”を、師匠とのマンツーマンの学びの中で教えていたこと!

そこには、単なる知識の習得ではなく、”体得”を目指す江戸・明治の教育観がうかがい知れる。

 

このことは、あとで詳しく見てみよう。

 

 

ともかく、

その教育姿勢からは、その子が将来、一人前の大人として社会に貢献することを、

ちゃんと想定した人間教育が行われていたことがわかる。

 

『江戸の平民社会において他人から尊敬される成功者と失敗者との差を決定づける、道徳律と世渡りの知恵を反映していると共に、それをまた次の世代に伝える役割を果たしてもいた』

R.P.ドーア

 

 

今の教育現場には失われつつある、

ある種の社会的父性や母性の”まなざし”が、そこにはあったんだね。

 

その子の得意不得意を承認しながら、

ときに厳しく、ときにはやさしく包み込む。

それは、ただ個人的感情で叱るとか、甘やかすっていうことじゃない、

社会の一員として、一人の人間として、立派に自立するために必要な、

まさに”ぬくもり”=情緒ある道徳教育だ。

 

そこには、教科書では得られない、人間としてのあり方、

いかに生き、死ぬべきか、という”文化”の根っこ(死生観)が、

肌感覚で受け継がれていたんじゃないだろうか。

 

これぞ、マジ尊み、だ。

 

そう、江戸・明治の寺子屋で教えられていたことは、

AIからは学べない人間存在の本質

本当に人間として生きる上で大切なこと、その”尊み”教育だったんだ。

 

 

 

寺子屋では誰が教えていたのか?

じゃあ、その社会的父性や母性を担う人、

寺子屋の先生は、どんな人が務めていたんだろうか?

 

寺子屋では、先生のことは「師匠」と呼ばれていて、

当時は、地域の教養ある知識人・有識者が、その職を務めていた。

 

当時、師匠になるには資格がいらないから、なろうと思えば誰でもなれたんだけど、

でも、だからこその”実力社会’でもあって、

いい加減な師匠は、すぐ悪い評判が立って、子どもが寄り付かなくなる。

 

だから実際は、なろうと思ってすぐなれるほど簡単なものではなかったんだね。

 

 

じゃあ、寺子屋の先生=「師匠」に求められるのは、どんなことだろうか。

 

一人ひとりが社会の役に立つ一人前になれるように教え育てるためには、

それぞれの才能や資質、使命を尊重し、見極める”洞察力”と、

それが開花するのをじっくり見守る”胆力”が求められる。

 

教育職っていうのは、

もっとも社会に貢献する名誉職でもあるわけだから、

いちばん”教養”と”人間力”のある人が選ばれたわけだね。

 

 

「えー、1192年、これね、鎌倉幕府できた年だから。

イイクニつくろう、なんつって覚えやすいでしょコレ。

テストに出てくるから覚えておくよーに!」

 

なーんてガッチガチに知識だけを押し付ける

頭ガッチガチ、肩肘ガッチガチの重心上がった頭でっかち

に務まる職業ではないのは、確かだろう。

 

 

そもそも、寺子屋の師匠はそんなに儲からない。

しかも、他に本業があるかたわら、寺子屋を経営しているのがほとんどだったらしい。

 

ということは、

次世代の文明社会を担う若者を育てる、

という”使命感”なしには、

到底できない仕事であったことがわかる。

だからこそ師匠に対する尊敬も生まれてくるというものだろう。

 

 

寺子屋に子どもを預ける保護者も、

「自分には学がないし、教養もないから、

せめて自分の子どもには、ちゃんとした教養を身に着けさせたい!」

という自分の立場や礼節を踏まえた想いや、

 

「あの先生のもとで学べば、一人前になれるから!ちゃんと学んでくるんだよ!」

という師匠へのリスペクトや有り難みを感じる気持ちが

親や地域に浸透していたから、成り立っていた”師弟”という関係でもあるだろう。

 

 

このような情緒は、義務教育が当たり前になった現代では見られなくなってしまった。

 

寺子屋の先生=師匠とは

なにも、金八先生のようなアツい想いあふれる昭和の学校教師ではない。

かといって、平成の温室育ちから生まれた、”公務員’のおこぼれに預かる、生徒との距離が近い”おともだち先生”でもない。

 

脱力し、かつ、心身の軸の立った、

遊び心と使命感をもった、かっこいい大人だ。

 

現代では、子どもに”憧れ”や”尊敬”を抱かせるようなカッコいい大人は、

漫画やアニメの世界のキャラだけになってしまった。

 

「早く大人になりたい!早く一人前になりたい!」

 

そう思わせるかっこいい大人がいなくなってしまったのは、

この師弟関係という、礼節とぬくもりある寺子屋文化が失われてしまったからではないだろうか?

 

 

寺の周りで遊んでいた子に、遊ぶように教えたのが寺子屋のはじまり

 

僕ら、日本人が思い浮かべるかっこいい生き様を貫く代表的な人たち。

 

それって「サムライ」って呼ばれてたりするよね。

 

江戸時代は、武家社会が270年も続いたんだけど、

それは庶民の規範である武士(サムライ)が、人間とはこう振る舞うべき、というお手本であり続けたからで、

庶民の規範として、”使命”を全うする背中を、見せ続けたからなんだ。

 

そして、江戸時代がすごいのは、

当時日本を訪れた西洋のエリートですら、

「私は質素と正直の黄金時代を、いずれのほかの国におけるよりも多く日本において見出す。」

と称賛したほどに、

武士だけでなく、庶民の主体的で、美意識の高い、自由闊達な姿があったことだろう。

それは、ないものねだりばかりする現代っ子とは違って、

庶民ですらもそれぞれの立場で自分の使命を全うするという生き方を、おのずから暮らしに反映していたからだ。

 

いうまでもなく、それは寺子屋における師弟によるぬくもり(肌触り)あふれる情緒的教育があったからだろう。

 

 

では、現代日本と江戸の違いはどこにあるだろう。

 

 

それは、”粋(いき)”という江戸の美意識に示される通り、

 

彼らが”遊ぶ”ように、脱力して学んでいたところにある。

 

寺子屋のはじまりも、寺の周りで遊んでいる子どもたちに、

教養のあるお坊さんが、遊びの代わりに”学び”を教えたところからはじまった。

そこでは、ただ教科書を教えるんではなく、遊びの中に学びを入れていった。

つまり、遊ぶように学ぶことを教えていったんだ

 

現代のように、肩肘張って、ゴリゴリに知識を詰め込みがちな教育ではない、

江戸の寺子屋教育の特徴は、

 

脱力して遊ぶように学んでいたこと。

 

使命を貫くために必要なのは、まさにこの姿勢だ。

 

ほとんどの人が、自分の使命を見つけても、それを”貫けない”。

それは、この遊ぶ”脱力”姿勢がないから。

 

肩肘張って、同調圧力に常に負荷をかけられながらも”頑張ってする”努力が、

現代では、称賛されがちだが、それでは、使命は貫けるはずもない。

 

 

江戸の寺子屋教育で師匠から弟子に受け継がれていた文化とは、

使命ですらも、遊ぶように脱力して貫くという姿勢=生き様なんだ。

 

使命とは、周囲から期待されて、それに応えるものではない

 

使命とは、背骨の中心からあふれ出す、その人体固有の”ぬくもりの記憶”を指す。

 

そのぬくもりの記憶を想い出した人体からは、無視できない”存在感”があふれ出す。

=その人がその人である由縁が、一挙手一投足に宿るんだ。

 

それが、明治の志士のあの凛とした気迫の正体だ。

 

それを引き出したのは、師匠から教わった生き様=脱力姿勢。

 

人体の中心を貫くたおやかな背骨のS字カーブと、それを支える足のしっかりとした基盤=下腹重心。

 

 

つまり、背骨の脱力と遊びなのである。

 

そして、脱力姿勢を保つ=使命を貫くために必要だったのが・・・

 

脱力するための最強のお守り=”型”を教えたのが、寺子屋教育

 

 

寺子屋の文武両道教育で、幼いころから徹底してカラダに叩き込まれたのは、

 

『型』

 

だ。

 

そして、この”型”こそ、脱力の心技体を養う最強のお守りとなる。

 

それも一度、体得してしまえば、一生涯奪われることはない財産だ。

 

日本の”武道”や”茶道”、’華道”など

『道』のつく芸能では、特にこの受け継がれてきた『型』を再現するように、まず言われる。

 

(サナギ)なくして、(脱皮)なし、(脱皮)なくして、(羽化)なし。

 

遊び、舞うように生きる境地=にいたるためには、『型』を守り体得する以外にはありえない。

 

 

これは、どんな分野でも共通して言われることだろう。

基本がなければ、応用もない。

 

『型』がなければ、『遊び』もない。

 

つまり、『型』がなければ、使命は貫けないのだ。

 

 

 

では、『型』とは?

 

それは、”姿勢”の『型』だ。

 

”姿”の”勢い”と書いて、”姿勢”。

 

勢いのあるコマが高速回転で、重心の上がったブレブレのコマを弾き飛ばすように、

 

志=使命が背骨に宿った下腹重心の人体は、亜空間知能(同調圧力)を弾き飛ばす。

 

寺子屋では、師匠の生きる”姿勢”=下腹重心を肌で感じて、

それを真似ぶ=学ぶことで、『型』を受け継いでいった。

 

文=テキストは、暗唱できるまで音読して、先人の知恵の『型』を染み込ませた。

武=カラダでは、背骨を立てるための、再現性の高い”姿勢の科学”=『型』を、師匠から見習い、カラダに染み込ませた。

 

どちらも息を吸うように無意識にできるようになる(体得する)まで、”守”をさせた。

 

そして、成人するまでにこの下腹重心の”型”が身に付けば、

あとは一生、カラダに染み付いた脱力の”姿勢”が、最強のお守りとなり、

その使命(忘れられない約束)を貫くための、基盤となる。

 

これが、現代では失われた寺子屋文武両道教育の真髄だ。

 

 

親が子どもたちに受け継がせるべきは、知識でもなく、お金でもなく、この”型”ではないだろうか?

 

江戸時代、親はこの”型”を体得させるために子どもたちを寺子屋に通わせた。

それ(型)が本当に大事なものを守ってくれる、と知っていたからだ。

 

 

『型』を体得するためには、『型』のお手本がなければならない。

ここで、師匠という存在が必要になってくる。

 

寺子屋の師匠とは、その地域でいちばんの『型』を体現する人。

脱力の達人=遊びの達人でもある。

『型』を美しく体現できるのが、重心の下がった”粋”でカッコいい大人の基準だったんだ。

 

 

 

それは、見てわかる、聞いてわかる、気配でわかる。

 

『型』を体得したものからは、有無を言わせぬ”存在感”が漂っている。

現代のように、肩書きや役職=ネーム、持っている道具(テクノロジー)の凄さではなく、

生身の人体が、自然に尊敬される。

 

そんな体温のある文明が、かつてこの日本にあったことを、僕らは忘れている・・・。

 

現代の学校教育と寺子屋教育のちがいまとめ

 

さあ、ここまでで寺子屋の教育について見てきた。

 

一度、現代教育との違いをまとめてみよう

  • 学校は政府が管理している”公営”、寺子屋は自由な教育を施す民営
  • どんよりと重~い同調圧力の学校と、ぬくもりと活気と人情味あふれる寺子屋
  • 個人個人の適正を無視した無機質な学校教育と、背景を感じ取って個々に合わせたマンツーマンな寺子屋教育
  • 生徒との距離が近すぎてもはや先生とは呼べないお友達先生と、社会的父性・母性のあるかっこいい”ぬくもり”師匠
  • 知識を詰め込む無情緒な機械ラーニングと、師匠の遊びのある背中=生き様を見て真似ぶ(学ぶ)脱力ラーニング
  • 常に人の目を気にして生きる現代っ子を量産する”頭でっかち”教育と、生涯使命を貫くための最強のお守り『型』=”下腹重心”教育

 

自分が受けている(受けてきた)学校教育と何が違ったか、想像できた?

 

いや、寺子屋なんて時代劇の中の話でしょw

いまさら学校に”ぬくもり”なんて求めてないしw

 

そう思う人もいるかもしれない。

 

 

でも、僕ら現代っ子が、常にフィクションに”かっこいい大人”の姿を求めるのは、

  • 現実にかっこいい大人なんて、そうそういないってこと
  • それでもやっぱり本当の父性や母性を備えたかっこいい大人を求めてる(そうなりたい)ってこと

この2つの葛藤が見え隠れするよねw

 

やっぱり求めちゃうんだよねって認めちゃったら、

あとは見つけるだけだし、それが”自分を知る”ってことだ。

 

少なくともコロナショックで、学校が社会において全く機能していない事実は

誰が見ても明らかな状況になった今、

あきらめて、人生”自粛”ムードのまま、

”本当の自分”をごまかして、ダサい大人のまま死ぬってのはどうなのよ・・・!?

(それフィクションだけどw)

 

 

てことで、

 

次の記事では、

 

現代に失われた”師匠”

 

そのかっこいい大人と、”師弟”という美しい関係性の

封印を解いちゃおうと思う。

 

 

”本当の自分”を知りたい人は、続けてゴー!

 

 

↓↓↓

 

【師弟関係】あらゆる漫画の主人公に師匠がいる理由

 

 

 

 

・・・いやいや、もうわかってる。

 

この違和感を早くどうにかしてほしい。

 

もう十分悩んだ。

 

答えを知りたい。

 

っていう感性が鋭い”師匠”待ちの人。

 

 

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