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東海道五十三次と飛脚。江戸の身体文化がすごかった・・・

双樹
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RSELをどこまでも愛す叡智バカ。昼は保育士、夜はRSEL叡智教員として働いている。言語に長けているが本当はただ共に静けさを感じたいだけ…そんな雅な彼はウォシュレットの記事にズキュンされてRSELへと導かれた。時空の妙技である。

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「え〜次は〜ふじさわ〜ふじさわ〜」

 

「お降りのかたはお忘れ物に〜ご注意ください」

 

ファーー−ーン!!

 

「電車が参りまーす。

黄色い線の内側までお下がりください」

 

タタンッタタンッ

 

タッタン・・・タッタン・・・

 

プシュー=3=3

 

 

 

・・・はい。

 

何を隠そう!

 

筆者は、10年ほど前、

神奈川の「藤沢」という地方都市にある高校に通っていた。

 

そして、筆者の生まれ故郷は、藤沢から3駅下った「平塚」だ。

 

 

(・・・知らんがなっ!!!)

 

 

 

そして、

その二駅をつなぎ、「東の都」=東京に至る”電車線”の名は、

「”東海道”本線」である。

 

もともとは、”東海道”という交通路があって、

その道に沿って作った電車線だから”東海道”線。

 

んで、昔の”東海道”を通る人たちの”宿場町”となっていたのが、

「平塚」や「藤沢」、「箱根」などの現在の地方都市ってわけ。

 

 

ん〜〜〜♪

 

私の生まれ育った町や、身近な道が、

江戸時代や、もっと前の平安時代から、

人々が行き交う拠点や交通路として使われていたなんて、

なんとも感慨深いね〜!

 

今回は、

そんな昔の風情に思いを馳せながら、

日本の西の都と、東の都をつなぐメインロードであり、

まさに日本の文化交流の”大動脈”とも言える、

この”東海道”について、さまざまな視点から見ていこう!

 

東海道五十三次の歴史

 

”東海道”

 

それは、今から1300年前・・・

奈良時代にまでさかのぼり、

平安時代、江戸時代・・・と、長い歴史の間、

 

日本の”東”と”西”をつなぎ、

様々な物や人や情報や文化が交流する

重要な”交通路”として機能していた、

いわば、日本の”メインロード”の一つである。

”東海道”は古くから使われていたが、

呼び名自体は、江戸時代に徳川家康が、

五街道を整備した時に名付けられたみたいだ。

五街道の中でも、江戸に住む”徳川将軍”と、京都に住む”天皇”

その二大権力のパイプラインとなった”東海道”は

やっぱり特に重要視されていたみたいだね。

 

 

当時は、交通手段といえば、徒歩か馬のみ。

 

人が行き交う交通路では、

当然、長い道のりを行く人や馬の

旅路の疲れを癒すための宿場が必要となった。

 

その東海道沿いにある53の宿場のことを、

 

”東海道五十三次”

 

という。

 

旅の道中、

つい足を止めて、見入ってしまうような、

美しい自然の景色や、

 

この景色を大切な人と一緒に見たい・・・

と、”あの人”に想いを馳せて、

つい歌を詠んでしまうような、そんな素晴らしい景色。

 

それらは、いつの時代でも、

さまざまな理由で旅をする旅人たちに

「観光名所」として愛された。

今でいう、疲れを癒す”パワースポット”みたいなものだが、

パワースポットが目的で旅をする現代ほど、

交通手段も便利でなかった時代では、

 

さまざまな情緒を抱えて旅をし、

ふと見るその風景に

なぜか時代を超えて、

同じ景色を見た人にそっと想い起こされるような・・・

 

そんな切ないような・・・

懐かしいような・・・

そんな想いを重ねていた・・・

 

 

かもしれないね♪

 

東海道五十三次で紐解く広重、浮世絵の秘密

 

そして、そのような「観光名所」を、

ポピュラーなアートとして、

一躍世に広めたのが、

 

歌川広重の”東海道五十三次”だ。

 

藤澤

 

平塚

 

歌川広重は、江戸時代に流行った「浮世絵」の代表的な人物だ。

浮世絵っていうのは、当時の流行りのものを描いていた、

今でいうワンコインで買える雑誌のようなもの。

うどん1杯の値段で売られたこれらの木版画は、

たちまち、庶民に受け入れられ、広まった。

そのビッグウェーブに乗った一人が”世界のHIROSHIGE”っちゅうわけ。

そう。

広重の活躍は、日本国内に止まらず、

その当時のヨーロッパにまで及ぶ。

 

かの有名なフィンセントファンゴッホ

 

ゴッホは、広重が書いた「浮世絵」を熱心に模写し、

その表現技法を学ぼうとしていた。

(上が広重のオリジナルで、下がゴッホの模写した油画)

(丸パクリやんけ。)

 

 

「でも、ゴッホくらいでしょ?こんなどハマりした人なんて・・・」

「それってゴッホが日本びいきだったからじゃないの??」

 

いやいや、とんでもない!

モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン、ロートレック・・・

美術の教科書に載るような、名だたる巨人たちが、

「Japanese UKIYOE」

にめちゃくちゃ影響を受け、

浮世絵に学ぶことによって、

新たな絵画の可能性に目覚めていったんだ。

 

彼らは「印象派」と呼ばれ、

戦争画や宗教画、貴族の肖像画ばかりだった

当時のヨーロッパの、

サロン絵画の古臭いセンスに飽き飽きしていた若者たちだった。

そんな閉じた暗いヨーロッパ芸術界隈に

彗星のごとく現れたのが、

極東の国「日本」の大衆芸術

「浮世絵」だ!

庶民の日常をのびのびと描くその、

自由な画風!明るい色彩!大胆な構図!

に衝撃を受け、彼らは夢中になって飛びついた。

 

 

そしてゴッホのように浮世絵の技法を研究し、

伝統絵画から脱却した新しい芸術を生み出そうと努力した。

そうして誕生したのがいわゆる「印象派」だったんだね。

 

そう、

「印象派」はまさしく日本の浮世絵が生み出したもの

とも言えるんだ。

 

ここに日本人の知らない事実がある。

そして、日本人にこそ知ってほしい事実だ。

 

よく「浮世絵は印象派に影響を与えた」といわれるが、

正確にはそれは正しくない。

影響を与えるもなにも、

ヨーロッパには、浮世絵到来以前に

「印象派」そのものが誕生していなかったのだから。

 

正しくは、

「浮世絵は19世紀の若い画家たちに」影響を与え、

その結果として「印象派が誕生した」んだ。

 

だから、浮世絵は「印象派の生みの親」と言えるんだね。

 

日本人が印象派の絵画を好む傾向があるっていうのも、

そりゃ当然のことだろう。

 

 

うどん1杯の値段の版画が、

世界の中心であったヨーロッパの芸術を、

根底から覆すような衝撃を与える。

これは、私たち日本人が知るべき事実の一つだろう。

 

江戸の時代に、一つの交通路の、

宿場町を行き交う人々の生き生きとした姿、その情緒。

それを描いたジャパニーズデザイナー「浮世絵師」

が世界に与えた、その影響を。

 

熱狂は全てのアトリエを、導火線を伝う炎にも似た速さで包んだ。
人々は構図の意外さ、形状の巧みさ、色調の豊かさ、彩やかな絵画効果の独創性とともに、それらの効果を得るために用いられた手段の単純なことを賞賛して飽きることを知らなかった。

(エルネスト・シェノー/「パリのなかの日本」1878年)

これは当時のパリにおける日本芸術に対する熱狂ぶりを伝えたものだ。

19世紀後半のフランスはパリ万国博覧会。
浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介され、大変な日本ブームを巻き起こした。

人々は争って日本の美術品を求め、

やがて”浮世絵”や”伊万里”を持つことが上流階級のステータスとされるまでになったのだ。

パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱は、

もはやブームを超えた影響力を持ち始め、

絵画だけに留まらず、工芸や建築、演劇、書物、ファッションなど多方面にまで及ぶようになった・・・。

 

はて・・・?

 

これは、偶然だろうか??

 

ちょっと珍しい極東のエキゾチックな文化が、

たまたま西洋にないもので、ウケた・・・

 

ただ単純にそれだけのことだろうか・・・?

 

西洋人が見た江戸の姿”逝きし世の面影”

 

当時の欧米のエリートたちが、

江戸時代の日本を訪れた際に受けた衝撃を記した手記がある。

「これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。」

タウンゼント・ハリス

 

「もし我々西洋の女性が東洋の姉妹たちから、勇気ある謙遜、義務への忠実、比類なき無私を学ぶなら、

一体どんなに世の中を変えることができるだろう、、、

英国の歴史のどこを探しても、日本の妻たちが、しばしば主人の足下に捧げたような崇高で強い愛の例は全く見当たらない」

メアリ・フレイザー

 

 

絶賛とはこのことか!

さすが褒め方がうまいねー、教養のある人は。

 

こうした手記は、実は多く残されている。

これも日本人が知らない事実の一つだ。

 

しかも、これは、欧米の庶民が書いた手記ではない。

当時の欧米の最高のエリートが書いたもの。

エリートっていうのは、歴史や文化、教養に最も精通しているとされる人々だ。

 

そんな人たちが、江戸時代の日本をこんな風に絶賛している。

 

これは、一杯のうどんの値段の、雑誌のような版画が、

世界に影響を与えるほどのポテンシャルを持っていたことと、

繋がってはこないだろうか・・・?

 

つまり、日本が世界に発見され、

世界にもてはやされたあの空前の日本ブームは、

ただのブームではなく、

社会システム、庶民の暮らし、文化において、

西洋が本当に羨むような、美しい国の存在を示していたのではないか?

 

「黄金の国ジパング」は、

”金”が大量に埋蔵されている国という意味だけではなく、

黄金の輝きを放つような、人々の振る舞い、姿勢、生き様を見た、

西洋人の比喩だったのではないか?

 

とも想像できる。

 

 

彼ら西洋人は、日本のエリート(サムライ)だけを見て絶賛したのではない。

美しい景観だけに感心したのではない。

大衆絵画や、大衆の姿、振る舞いを見て、ショックを受けたんだ。

 

その子供たちの自由なふるまい、

女たちの屈託のない素振りと姿、

日用雑器やおもちゃや土産物の細工のすばらしさに

多くの外国人が目を見張った。

 

 

「袖触れ合うも他生の縁」

という言葉があるが、

どんな小さな縁でも、大切に、尊く接する

その闊達な姿こそ、

 

直接会っていても、スマホを通して会話する風景が

当たり前になった現代の我々が、失ってしまった、

そして、本当は最も望んでいる風景の一つではないだろうか?

 

東海道五十三次を通る、人々にも、

そういう空気感があったのだろう、と想像できる。

「や!こんちは!どっからきたんですか?」

「私は京都の方から」

「いや〜遠くからごくろうさまです!」

「孫に会いたい一心でね〜」

「うんうん」

「そちらさんは?」

「いや僕はもうすぐそこです、平塚っすよ。”これ”っす、”これ”!」

「あ〜女かー!わっはっは!!若うてええのう!わしも若い頃は・・・」

 

なんつって、そのまま茶屋で3時間話し込んだりしてね。

 

そんな「一期一会」を愉しむ”粋さ”が、江戸の風情だ。

 

 

では、江戸の時代の

浮世絵や、当時の文化から垣間見える

その豊かな情緒や感性は、

どこから生まれてきたのだろうか?

 

 

その秘密は・・・江戸の”身体文化”にこそある!

 

東海道五十三次を走り抜けた「飛脚」

 

話は変わるが、

江戸時代、東海道五十三次を、

手紙や荷物を輸送するために、

生身で最速で駆け抜けたヤツらがいた。

 

まさに”人体”のポテンシャルを引き出した

運送のプロフェッショナル集団。

 

彼らは、飛脚と呼ばれる。

 

江戸から京まで500キロメートル弱ある、

”東海道”を、

彼らはなんとまる二日で走り切ったという・・・

 

おそるべし。

 

 

 

 

ん・・・?

 

LINEがあるじゃん・・・?

Amazonのお急ぎ便ならその日のうちに届くよ・・・?

 

飛脚?遅い遅い・・・

 

江戸〜大阪間2日間?

 

遅すぎwww

 

今なら新幹線で2時間

 

LINEなら0.2秒だよ^^

 

 

・・・

 

 

いやいや、言いたいのそういうことじゃあない。

 

 

 

ともかく!

まずは、飛脚について、紹介しよう。

 

飛脚とは?飛脚の歴史

もともと「飛脚」っていう言葉の意味は、

「速く走る者」「手紙を運ぶ者」という意味らしい。

 

手紙や、荷物や、大事なものを、預かり、

代わりに運び、届けるっていうサービス。

 

飛脚とは、昔の「宅配便」って事だね。

 

今はもう使われていないが、見覚えのある人もいるだろう。

以前の「佐川急便」のマークには、「飛脚」のイラストが使われていた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

『飛脚の精神とは常にお客さまに誠心誠意尽くすことである』

佐川急便がスタートしたのは1957年。

単にお荷物を運ぶだけではなく、お客さまのことを考え、お客さまのために自分がいまできることを精一杯実践することが、「飛脚の精神」の礎となっているのです。

飛脚とは江戸時代に活躍した人々。お荷物を守り、届け先以外には絶対に中身を教えないことを鉄則にしていました。

交通手段の発達した現代においては、東京都から大阪まで郵便物を送る場合、午前中に速達便で出せば翌日には到着します。

・・・

「佐川急便株式会社 会社紹介 飛脚の精神」より

 

ここに書かれている通り、

飛脚といえば江戸時代だが、

飛脚=運送業の歴史は、東海道と同じで、

その起源は、律令制(中央集権制)の敷かれていたおよそ1300年前に遡る。

 

当時、都である奈良や京都と、地方をつなぐ情報伝達システムとして、

「駅伝制」が設けられていた。

 

今や、スマホでポチッと押したら、

電波に乗せて、コンマ数秒で送れてしまう情報も、

当時は馬に乗せて何日もかけて送っていたんだ。

で、馬はずっと走っていたら疲れるから、

ところどころに「駅」を設けて、馬を交代していたわけ。

 

これが、あのタスキをつないで走る「駅伝」の由来なんだって。(へ〜〜!!)

 

そして、鎌倉時代には、「鎌倉飛脚(六波羅飛脚)」っていうのが、

整備され、京都ー鎌倉間を72時間で結んだんだ。

 

「駅」は、律令制の崩壊と共に、廃れてしまうんだけど、

鎌倉時代には、その代わりに「宿」っていう宿場が発展する。

 

それが、江戸時代には、あの歌川広重の「東海道五十三次」に描かれる、

「宿場町」に発展するんだ。

そして・・・

 

さあ、やってまいりました、江戸時代。

実はそれまでは、各権力者の下で行われる『使い走り』のような感じが強かった「飛脚」も、

江戸時代に入り、ようやく五街道や宿場町が整備される事によって

全国的なシステムとしての「飛脚」が花ひらく事になる。

 

大名から町人まで、宅配便は「飛脚」にお任せ♪

 

その気になるお値段は・・・?

 

 

一番お高いコースの江戸〜大阪2日間で届く最速チャーター便(その名も「無刻」)を使うと、

お値段なんと銀700匁(約140万円)!!!(ファーストクラス乗れるじゃないの!!)

(ちなみに一番安いものだと、江戸~大坂間およそ9日でお届け、料金はわずか30文(約600円))

 

値段も気になるが、

さらに驚くべきは、まる2日で500キロメートルを走破する、

その脚力たるや・・・

 

まさに体力の鬼や!

 

ちなみに、飛脚はその後明治になり『郵便制度』の確立とともに廃止となるが、

飛脚として働いていた人々は郵便局員や人力車の車夫などになったそうな・・・。

 

飛脚1日の走行距離

「で、実際、飛脚ってどのくらい走っていたの?」

 

最速便(無刻)になると、東海道の江戸から京都間約493㎞を60時間足らずで走り抜いた(時速は8㎞以上)というが、

リレー方式で昼夜関係なく送るシステムなので、

飛脚が走る区間は宿場から宿場までの2~3里(約8~12㎞)程度だったらしい。

出発地点から目的地まで1人の飛脚が運ぶ「通飛脚」(とおしびきゃく)もあったらしいが、

基本は、チームワークで仕事していたんだね。

 

一人の力ではなく、チームワークの力で仕事を最速に!

まさにプロフェッショナルだ。

 

それでも一人の走る距離と速さは、半端じゃなかっただろう。

 

 

 

「てか、馬使った方が早くね??」

 

そう。飛脚といえば、人間が走るってイメージが強いよね。

 

これは当時「乗馬」というものが武士の特権だったのも一因ではあるが、

一番はやはりコストの問題があったみたいだ。

 

馬にかかる餌代や付き添いの人件費を考えると、

人をリレー形式で走らせたほうが安いし、

道も現在のような舗装された道ではなかったので、

山野を駆けていく意味でも人の方が便利だったのだろう。

 

ただし、速さ優先で馬を使用する場合も多少はあったみたいだ。

 

飛脚の速さの秘密は走り方にあった!?

飛脚は、走るプロフェッショナル。

 

同じプロフェッショナルであるマラソンのアスリートの走りを見ると、

実際、一瞬で過ぎ去っていくよね。

 

東海道をさっそうと走る、飛脚も、

通行人からすれば、一瞬で過ぎ去り、

通り過ぎた後には、ふわっと風が吹いていたに違いない。

 

当時、靴もなく、道路も舗装されていなかった時代に、

飛脚がそこまで速く走れたのには、

実は、その走り方に秘密があったんだ。

 

ナンバ走りの足裏球体感

飛脚は、「ナンバ走り」という、

手と足がいっしょに出るような走り方をしていたと言われる。

 

サムライの歩き方を「ナンバ歩き」ともいうが、

これは、腰をひねらないため、人体の負荷が最小限に抑えられる効果がある。

 

仙骨を反り、膝をグニャグニャ柔軟にし、

足裏をローラーのようにして”球体”を感じながら、歩く。(足裏球体感)

 

実はこれが、人体にとって、最も効率的な「歩き方・走り方」だ。

 

飛脚が舗装されていない長い距離を、あんなにも速く駆けることができたのは、

ナンバ走り=足裏球体・仙骨の反りが板についていて、

負荷を最小限に抑えられたからなんだね。

 

 

ちなみに、なぜ「ナンバ歩き・走り」と言うかというと、

腰をひねって歩く、という身体文化が存在しなかった日本人が、

西洋の歩き方を真似した「南蛮歩き」が元だと言う。

 

サムライの歩き方=ナンバ歩きってイメージがあるけど、

逆に、西洋人の真似をしたのが「ナンバ(南蛮)歩き」って言うんだね。

 

そもそも、日本人は日常、着物を着て帯を締めたため、

腰を入れて【仙骨の反り・骨盤の前傾】

すり足【足裏球体感】で、

人体の体軸を立てて、動作を行う。

 

だから、西洋人のように、大きく手を振って歩く、

と言うのが奇妙に見えたのかもしれないね。

 

薬指、小指で荷物を持っていた!?

「ナンバ歩き」もそうだが、

江戸の身体文化に特徴的なのが、手指の扱い方だ。

 

剣道をやっていた人はわかると思うが、

刀を持つ指は、薬指と小指だと指導される。

同じように、着物を着た江戸の人たちは、

基本の所作として、ものを持つときに、

薬指と小指を意識し、脇を締めていた、と推測できる。

 

もちろん、飛脚も、だ。

 

これには、合理的な理由がある。

人体の構造上、

体軸に近い薬指・小指を意識し、肘を締めて、動作すると、

余計な力が入らずに、ラクにものを持つことができるんだ。

 

さらに、腕がコンパスと定規のように機能して、

人やモノとの適切な”距離感”を算出できるという隠しアプリもある。(薬指・小指肘締めコンパス)

 

 

これはぜひ実際にやってほしい。

薬指・小指を意識しない時と、した時では、

感じる物の重さや、人との距離感への感じ方が変わることに気づくだろう。

 

この所作を普段から意識し、洗練させていくことで、

脱力した、たおやかで美しい動きを体現できる。

日本舞踊や、能や歌舞伎、

茶道などの日本文化の、

美しい所作にはこんな秘密があったんだね。

これはSONKYO-ZINEだけが知っている、

失われた人体の隠しアプリの一つだ。

 

ぜひ、実践してみてほしい。

 

 

江戸の身体文化「下腹重心」

 

さあ、ここまで、東海道五十三次にまつわる、

”文化”と、”身体の扱い方”について見てきた。

 

一見、繋がらないような、バラバラな話だが、

これらの話には、共通点がある。

 

 

それは、江戸の身体文化=下腹重心だ。

 

なぜ、文化と体が繋がるのか?

なぜ歌川広重の浮世絵と、飛脚のナンバ走りが繋がるのか?

 

それは、あらゆる文化、芸術、社会構造、道具、人との関わり方は、

この”人体”の扱い方によって決まってくるからだ。

 

人体の最適な重心の置き所、下腹に重心を置くことで、

体軸が安定し、脳みその位置が正しい位置に収まる。

 

そうすることによって、

余計な力を入れずに、所作・立ち居振る舞いが美しくなるだけでなく、

頭の使い方にも変化が現れる。

 

それが、創造性を開花させ、素晴らしい文化が花ひらくことにも繋がるんだ。

 

ルネッサンスの時代然り、

後世に残る素晴らしい文化が花ひらくのは、

人体に目を向けた時。

そして、日本はその身体文化において、

庶民レベルにまで浸透した、すばらしい歴史があった。

 

江戸の身体文化である、下腹重心は、

特権階級のサムライだけでなく、庶民の生活の隅々にまで行き届いていた。

だからこそ、江戸時代は、当時の日本を訪れた西洋人エリートが、

目を見張るような衝撃的な文化・社会となったのだろう。

 

 

下腹重心は、人体を持つ人ならば、あらゆる人に可能性がある。

 

戦後、社会システムや生活様式が西洋化して、

私たちは、これらの”身体文化”を失った。

 

生きる”背骨”も見失い、

浮き足立った現代日本人が、

現代の”浮世(憂き世)”で、学び直すべき対象は、

まさに自国の歴史の中、”逝きし世の面影”にある。

 

あの時代、あの人々、あの輝きを、僕らは知らない。

だけどどこかで知っている・・・

 

それを今日も、かつての東海道。

今はコンクリートに覆われ、鉄の塊しか走らない、

あの国道1号線を、足裏球体で踏みしめながら・・・

 

想いを馳せてみよう!

 

 

江戸時代よりもっと余裕のある暮らしができている「浮世」な現代と、

だけど、なーんか生きづらいんだよなーって「憂き世」な現代、

 

そんな相反する二つの現実が、混ざり合う現代だからこそ、

この江戸の”粋”さに学ぶことが多くあるんじゃないだろうか?

 

 

さあ、今こそ日本人としての誇り

身体文化=「下腹重心」を取り戻そう!

 

 

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